やおいに現実感を求めると言うのは、実際野暮な事だと自覚しています。
やおいと言うのは元が親密な友情を傍観した上で発生する妄想であり、
ゲイセクシュアルな関係を観察し、咀嚼し消化した上で生まれる創作
ではないのですから。やおいの現実感は性的関係のみに顕れてさえ
いればそれで良かった筈なのです。
だから非常にストレートな現実感をもったやおい作品を目にした時に、
評者は戸惑い、『これはやおいではない』と規定する事で戸惑いから
逃げ出そうとするのでしょう。その戸惑いを此処で糾弾するつもりは
毛頭ありません。
この作品には逃れ様の無い現実感が漂っています。が、紛れも無く
やおいの落とし子なのです。やおいもまた、進化するものなのでしょう。
(2004.3.20)
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