最初は、只見ているだけで好かった。それで満足していた。 そもそもが葡萄瓜の同人観と言うのはどうしても男視点な物 だから、じめじめした文学崩れか裏付け無しの妄想か、其の2 通りしかなかった。其れを「やおい」が面白いほどに覆してく れたのである。心から喝采を送っていた。 と、同時に男である故の寂しさを感じていた。此方が親近感 を持っていたとしても、作者である女性達からは受け入れられ ないだろうと思っていたから。 と言って、男連中に雑じる気も更々無かった。彼等の余りの 自意識過剰さには閉口していたし。其の割に無知を平気で曝け 出す。「ロリータ」の出典がナボコフの同名小説からだと言う 事を知らんアホが平気で「やおい」批判なるものを展開してい い気になっている。其の根拠も実に薄弱なものでしかなく。 とりあえず我慢の限界だった。何かガス抜きの手段を考えねば ならぬ。 同時期に書いたオリジナル小説の原稿(極一部別サイトで公 開中)には其の苛立ちがよく出ている。主人公達の関係のヴァ リエーションとして「やおい」を用いたのだから。 其の時は「パロディを書く」と言う事は完全に失念していた。 そこで、理論に走ってみる事にした。同性愛と言う視点から …日本にかつて公に存在した「やおい」とも言える「衆道」に ついて…小説の中から…。民俗学・歴史・文学等、無知な侭や おい批判をする連中を言い負かす日を予想して関連文献を兎に 角漁ってみた。結構図書館にもあるものだ。小説に関しては、 一般作品の中からもかなり「耽美テイスト」のものが探し出せ た。 其の頃の濫読が結構役に立っているのかも知れない。尤も、 だからと言って所謂「純文学」の中の耽美テイストなるものに は言い訳がましさを感じて賛同は出来ぬが。 閑話休題。 小説では赤江曝氏の作品群、そして野亜梓氏の作品に心を惹 かれた。両氏ともれっきとした男性である。而して、其の作品 内で描き出される男性同志の関係は正しく「やおい」だった。 一気に安心してしまった。 男が「やおい」の中に居ても良いんだ、と、背中を押された 気がした。 気付いてみれば、同人世界の分布図も変化してきていた。 そう、息がし易くなっていた。やおいが色物の1ジャンルか ら正当な1ジャンルへと進化していたのだ。尤も其れは俄か味 方の出版社による余計なトラブルも招いた。どれだけの雑誌が 生まれ潰れて、良い作品が埋もれて行ったか。何とか過去のお 蔵入りを救済できた運の良い作家さんも幾たりか居るが、大部 分は出版社の無責任な青田刈りで消えている、としか思えぬ。 では次辺りで葡萄瓜がネット同人となった過程を開陳しよう か。待たれたし次回講釈。