さて、ここ最近衆道や稚児に傾いている葡萄瓜でありますが、
今回もまたそちらの方面で。
集めた絵画彫刻資料から感じた事を一くさり書かせて戴きます。
本屋でOh My God! 世間はやおいに溢れてる?にて、衆道や
稚児は極めてやおい的である、と書きました。これは古代ギリシ
ャ・ローマ時代の『少年愛』にも言える事でありまして、常に
年長の指導者が少年を教え導く過程で肉体関係も絡むと言うもの。
少年同志青年同志は散見されるとは言うものの壮年同志の、現在
のゲイの様な関係は中々みられない。
存在はしていたのだと思いますが、記録が見当たらないだけか
も知れません。
ここで確認したいのは、衆道にせよ稚児にせよ少年愛にせよ、
女性の代用品ではなかったと言う事です。ましてや、性の捌け口
に使う人形の代用でもありません。あくまでも『少年』であるが
故に愛の対象になった、と言う事です。
稚児の場合、寺院と言う閉鎖空間の中で第二次性徴発現前の少
年が女性化された挙句破戒僧達の性の捌け口にされた…と言うイ
メージが強いのですが、現存する『稚児草子』の絵を見る限りで
は、当初は第二次性徴発現前後の少年が少年として愛され、少年
も其の愛に応えた、と言う感が強いです。
衆道になると年齢的な役割分担及び交代制があった為、女性化
の波の入る余地など無かったようです。寧ろ時には少年らしい無
茶苦茶さの発露さえも愛された様子。井原西鶴がお気に入りの若
衆歌舞伎役者のやんちゃ振りに『それでもあの子は可愛いのです』
と褒めていた記録もありますし。
ギリシャローマ期の少年愛の場合、中学高校辺りのクラブ活動
に肉体関係が加わった、とイメージして下さい。但し、肉体関係
があるからと言ってクラブ活動の内容に手抜きが在る訳ではなか
ったでしょう。寧ろ一層の厳しさが要求された筈です。後輩にだ
けではなく、教え導く立場の先輩にも容赦ない鍛錬の厳しさは要
求されたと思われます。それは、後輩以上の厳しさが。
そう。精神を鍛え、其の入れ物である肉体も鍛える事が要求さ
れていたのですから。そこには女性化の欲求なぞある筈が有りま
せん。有ってはおかしいのです。
ですが、時代が下っていくにつれて愛の対象である少年の描写
が何となく変わっている様に思われました。少年らしさが消え、
女性的な優美さに傾きつつある…のは愛を捧げる年長者の心の投
影なのでしょうか?
それが悪だと断言できる程葡萄瓜も資料を目にした訳ではあり
ません。が、それを稚児や衆道や少年愛と呼ぶのには抵抗があり
ます。それは女性への欲求の代用では無いのか、と思うのです。
そこにはやおいの入る余地も、多分無いでしょう。
稚児・衆道・少年愛をやおい的だと思ったのは『少年が愛され
ている』と言う事と『理想の究極化』と言う面からです。
それら三つの世界における受攻の理想は究極にまで高められて
います。現実には有り得ない一種のファンタジーかと思う程に。
その当時現実にその理想が実践されていたか?恐らくは否でし
ょう。理想はあくまでも理想。それに近づこうと言う努力があっ
ただろう事は否定しませんが。
其の通りの理想が完全に実行されていたとしても、それが理想
郷の出来事であったと言う確証とてない事ですし。