資料の漣 長し短し

 最近ネットを徘徊していて思います事は、物語にしても漫画にして
も程好い短さのものが余り見当たらぬと言う事です。延々と語られて、
物語の緊迫感が持続しているに関わらず観ている側が疲れてしまう程
の大作ですとか、又は余りに短すぎて何を眼目にしていたかうっかり
見落としてしまう様なものですとか。
 又一枚絵にしても、物語の挿絵と言う感覚で眺め得るものから一枚
絵にも拘らず掌編から短編に等しい物語の背景が詰め込まれ意外な満
足感を覚えるものもあったりします。
 さてこのアンバランス、如何にして調整するべきものでしょうか。

 本邦で物語が論じられる時、無意識の結果なのでしょうがどうも長
編であればある程評価されると言う傾向がある様です。長編であれば
書く時間も長く掛かるだろうから労力も必要になる。短編掌編ならば
書く時間も然程掛からないから労力も少ないだろう、と…読んでいる
方は思われるのでしょうね。
 実際、物語を長くするだけなら容易と言えば容易です。物語及び展
開の整合性を無視してだらりだらりとエピソードを繋いでいけば良い
のですから。この場合良心に些か目を瞑って貰う必要がありますね。
本当に難しいのは、物語・展開の整合性を保ちつつ余計な言葉を省いて
その空いた隙間にきちんと物語の破片を嵌め込み、更に長丁場故の単
調さを回避する為のテンポの切り替えをしっかり為す。自分自身でこ
う合点していても中々書けないものでございますが。
 短編掌編の場合は、整合性を保ちつつ余計な言葉を省くまでは一緒
なのですが、そこからが違います。空いた隙間に言葉を詰め込みすぎ
ず、読んでいる人が滑り込む隙を一つ残す様に心がけるべきなのだと
思っています。硝子越しに作品世界を見通して貰うと言うのも一つの
スタイルではありましょうが、読んでいてシンクロ出来ない物語と言
うのは読み易い長さであっても少し肩が凝るのです。
 かの星新一氏は、あのショートショート2編を書くのに大体一晩を
費やしたと人伝に聞いております。普遍的である事を第一に考えると、
どうしてもそれだけの時間を費やす事になったのだ、とも。
 
 壮大に語られるも、短い言葉に万感を込めるも人それぞれです。
 ただ、こうして外側に向かって口を開いている以上、読み手に立
ち返って程好い長さを模索するのもまた宜しいのではないか、と思
います。
 殊にネットの場合、言葉を発する人間は作者であり、又装丁者で
もあるのです。これとても人事ではありませんが、良き装丁で疲れ
を感じぬ程度に環境を調整して読んで戴こうと思ってみるのも悪く
はありますまい。
                (2004.7.26)